映像資料批評秀作


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ロマン・ポランスキー作『戦場のピアニスト』 (工学部1年)

 この作品は、実在の人物であるウワディスワフ・シュピルマンが書いた回想録に、忠実に作られた作品である。ポーランドの国民的ピアニストであるシュピルマンが、ユダヤ人であるために迫害を受け、家族全員を失いながらも、奇跡的生還をとげる様子を、淡々とした調子で描いている。監督は、名匠ロマン・ポランスキー。ポーランド人の両親を持つ彼も、当時ナチスによる迫害を経験しており、母親を収容所でなくしている。代表作には『ローズマリーの赤ちゃん』『チャイナタウン』『テス』などがある。

 時は1939年9月、第二次世界大戦が勃発し、ドイツ軍がポーランド侵攻に対して真っ先に目をつけたのは、首都のワルシャワだった。当時ポーランドには350万人のユダヤ人がおり、そのうち36万人が商人、労働者、専門家としてワルシャワに住んでいた。シュピルマンもそこで父母、弟、2人の姉と暮らしていた。

 物語は1939年の9月、ドイツ空軍がワルシャワの国営ラジオ局を爆撃するところから始まる。そのときシュピルマンはラジオ局でショパンを演奏していた。避難する最中、彼は親友の妹のドロタと出会う。

 まずドイツ軍はワルシャワのユダヤ人にゲットーと呼ばれる地区への移住命令を出した。ドイツ軍は同地区を閉鎖し、ユダヤ人に対する財産の没収、強制労働,また、ユダヤ人警察と「人間狩り」と呼ばれる無差別殺人を行った。一度彼の弟も警察につかまったが,同警察で友人の、鼻持ちならないヘラーに頭を下げて弟を助けてもらう。

 それからまもなく、ゲットーから大量のユダヤ人を乗せた家畜列車が収容所へ向かうようになる。大勢の人が広場に集められ、シュピルマン一家も列車に乗せられようとしていた。そのとき,ユダヤ人警察のヘラーが,シュピルマンの肩を引き、列から引き離した。彼だけが,死の収容所行きを免れたのである。

 その後ゲットー内の壁を壊す労働グループに加わったが、ピアニストの彼にとっては過酷な仕事だった。役に立たない者は殺されるか収容所送りである。仲間は楽な仕事と変わってくれたが,彼はゲットーを脱出することを決意する。

 友人ヤニナの手引きで隠れ家に移り住むと、そこで彼はゲットーの蜂起と無残な結末を目撃する。やがてヤニナも捕らえられ、その後彼も隣人に存在がばれて隠れ家にいられなくなる。彼女から渡されていたメモの住所へ行ってみると,そこには身重のドロタとその夫がいた。

 ドロタの手配してくれた隠れ家で暮らすが,食料を手配してくれるはずの知人に裏切られ、飢え死にしそうになる。危機一髪のところを彼女と夫に助けられるが,彼女もまた出産のため田舎に行く、と別れを告げられる。

 彼女が去った直後,ワルシャワ蜂起が始まり,街は戦場となった。銃撃から必死で逃げ惑うシュピルマン。やがて瓦礫の山と化した街を,彼はたった一人空想のピアノに向かうことで生き延びていた。そんなある夜、一人のドイツ人将校に見つかってしまう。ピアニストだと告げると、彼はピアノのある部屋まで連れて行き,何か弾くようにと命じた。彼はおそるおそる手を乗せると、暗闇にショパンの旋律を響かせた。

 ドイツ人将校は彼を見逃し,さらに定期的に食料を届けてくれた。ドイツ軍が街を撤退する日,将校はいつかラジオで彼の演奏を聞く、と約束して去っていった。その後程なくソ連軍がやってきて、シュピルマンは無事助け出されることとなる…。

 百聞は一見にしかずとは、この映画を見てまず思ったことである。今までナチによるユダヤ人迫害は何度も耳にしてきたことだが,映画の中で、人がまるでごみのように殺されていくシーンは,命は平等だという価値観がおかしくなりそうなほどの衝撃だった。そこには正義も理屈も意味をなさない。大人も子供も、善なる人も悪しき人も、ただユダヤ人であるというだけで殺されていく。人種という境界をつけて人が人を見下すことの愚かしさと恐ろしさが、この作品に凝縮されている。

 次に思ったのは,ユダヤ=被害者、ナチス=加害者という単純な図式は成立していない,ということだ。作中にもあるように,シュピルマンを救ってくれたのはいずれも敵側の人間だし、味方だと思っていた人間には裏切られて死にそうな思いもしている。これは、一方のみを悪者にする偏った見方は危険である,という原作者と監督からの警告のようにも思われる。戦争のように国や地域といった大きな枠組みが問題になるときでも,常に「個人」という公平な視点を忘れてはいけないのだと感じた。

 最後に,自由も、平等も,心身の安定がなければ成立しないものだと思った。生きるか死ぬかの窮地に立ったとき,人は自分以外の存在まで気にかけることはできない。したがって,食料の安定的な確保と治安の維持が、平和への第一歩なのではないかと思った。



BBCビデオ『市民の20世紀』 「革命の赤い旗」、「ベルサイユ体制」 (理学部1年)

「革命の赤い旗」

 このビデオではニコライ二世退位によるロマノフ朝の終結以降のロシア革命が描かれている。第一次世界大戦の最中に起こったロシア革命。臨時政府の登場とレーニン率いるボリシェヴィキの台頭。レーニンの社会主義からスターリンの社会主義政策までを当時のロシア革命体験者の体験談をもとに克明に描かれている。

 ロマノフ朝が倒れ、臨時政府が建った。臨時政府を批判し、社会主義を唱えたレーニンは後に臨時政府を倒し、ボリシェヴィキ一党独裁をはじめた。レーニンは平等を唱え、全国民が読み書きができるようにするなど様々な政策を行なった。レーニンの死後登場したスターリンは完全な社会主義を目指し、はじめ崇められた。農業の集団化を進め、クラークや地主などを排除し、土地を奪っていった。家畜や穀物などを強制的に奪い、それが原因で大飢饉が発生した。多くの人が餓死したにもかかわらず、スターリンは多くの犠牲を無視して農業の集団化の成功を発表した。また、スターリンは共産党や政府の側近や高官などの大粛清も行なった。多くの人が粛清によって命を落とし、また何の罪もない人を囚人として厳しい環境のシベリアで強制労働をさせた。

 レーニンは非常に合理的に社会主義政策を行なったと思う。私は社会主義には反対だがレーニンの行なった政策は効果的であったと思う。しかし、スターリンはレーニンの作った社会主義の基盤を崩し、完全な失敗を犯したと思う。確かにスターリンがはじめに目指した社会主義は成功を収めたのかもしれない。しかし、スターリンは重要な事を忘れていた。農業の集団化やそれによる飢餓への対応などで農民たちの信用を完全に失った。また、大粛清によって党上層部での信用も失っている。確かに飢餓や粛清のことなど知らないひとたちはいずれとしてスターリンを崇拝したかもしれない。しかし、結局のところ基盤を失ったうわべだけのものになっていたのではないだろうか。

「ベルサイユ体制」

 このビデオでは第一次世界大戦の講和条約であるベルサイユ条約をめぐる戦勝国と敗戦国の状況が描かれている。イギリスやフランスのドイツに対する報復心やウィルソン米大統領の平和への願いなど様々な思いが交錯し、平和とは裏腹に再び戦争の道へ踏み入れてゆく。

 1919年パリ講和会議においてベルサイユ条約は締結された。国際連盟の設立、ドイツへの多額の賠償金、そしてポーランドやチェコスロバキアの独立などが盛り込まれた。国際連盟にはアメリカやソ連など大国が参加しなかった。そのせいか実際に国際連盟はうまく機能しなかった。ドイツの問題では、賠償金のせいでハイパーインフレや世界恐慌などで不況がおこり、ドイツ内では時間が経つにつれベルサイユ条約に対する不満が増大してきた。その不満の中で登場したヒトラーはオーストリアの併合をして完全な条約違反を行なった。しかし、イギリスやフランスは目をつぶった。ズデーテン地方の併合にも合意し、完全に戦争への道を歩んでゆく。

 ベルサイユ条約とはもともと一体何のためにあったのか。もともと戦争を反省し、平和を目指すためにあったのではないのだろうか。しかし、実際にはまるで第二次世界大戦を起こすためにあったかのようだ。イギリスのロイド・ジョージやフランスのクレマンソーはドイツへ報復する事しか考えていなかった。天文学的な数字の多額の賠償金と様々な制約がどれほどのドイツ人の反発を生み出すかは予想できたはずだ。そうなればまた同じ過ちが起こることは自明なはずである。なのになぜあまりにも厳しい条件を突きつけたのだろうか。自国が戦争によって仕打ちを受けたからといって同じ苦しみを相手に与えるというのは何の解決にもならない。戦争を反省していたのであれば一方的に条約を突きつけるのではなく、ドイツをはじめ敗戦国にも発言権を与え、議論を十分に行なったうえで条約を締結すべきであったのではないかと思う。




NHK映像の世紀 第7集「勝者の世界分割」 (工学部1年)

 「勝者の世界分割」はヤルタ会談から東西冷戦突入までの期間すなわち第2次世界大戦の終結前後の世界を実際の映像を交え、ノンフィクションで描いたドキュメンタリーフィルムである。ヤルタ会談は戦後世界の運命を決める大きな契機であった。アメリカ、イギリス、ソ連の3大国が互いの思惑を込めて交渉したヤルタ会談が後に東西ドイツ分裂や朝鮮戦争などの悲劇を招いたプロセスが克明に描かれている。

 このドキュメンタリーでは、ヤルタ会談のシーンに重点が置かれている。ヤルタ会談は1945年2月、アメリカから時の大統領ルーズベルト、イギリスから「戦争屋」の異名をとる時の首相チャーチル、ソ連からスターリンの3者隣席の下に行われた。ルーズベルトはチャーチルより現実主義者のスターリンとの方が馬が合い、スターリンもまた反共主義者のチャーチルを警戒し、ルーズベルトとの方が馬が合う。一方、チャーチルはソ連の出方を警戒するといったように3者それぞれの立場があった中で会談は行われた。会談では、ドイツ解体問題、ポーランド処分問題、バルカン取引、極東密約の主に4つが議題に選ばれた。

 まずドイツ解体問題では、スターリンがドイツに対して賠償請求すべしと主張したのに対し、チャーチルは第1次世界大戦後にドイツが多額の賠償金を課せられたがためにナチスが台頭し、ヨーロッパ中を脅かす結果となったとして反対し4カ国分割統治を主張した。

 次にポーランド処分だが、これがヤルタ会談最大の争点であり、全日程の半分が割かれたという。ポーランドはナポレオンのロシア遠征にも見られるように、常にロシア支配への通り道であり、ソ連にとってそのことは脅威であった。そのためソ連としてはポーランドをソ連統治下に置きたいという思惑があった。一方、イギリスはポーランドを民主主義陣営の一員にしたかった。当時、イギリスの首都ロンドンにはポーランドから亡命していた亡命政権が存在し、イギリスはその政権を承認していた。それに対し、ソ連はポーランドに発足していた共産主義のルブリン政権を支援していた。チャーチルは領土問題を譲歩する代わりにロンドン亡命政権の国家運営中核への参加を主張したが、スターリンがこれに反対した。結局、ルーズベルトのとりなしで戦後ポーランドにおいて自由選挙実施の上、ルブリン政権かロンドン亡命政権を選ばせることで決定した。しかし、会談終了後スターリンはポーランドに帰国したロンドン亡命政権を即刻逮捕し、ヤルタでの取り決めを破ることとなった。

 バルカン取引問題についてはヤルタ会談に先立つ1944年10月、モスクワにおいて会談が行われた。当時イギリスとソ連が利権をめぐり争っていたバルカン半島における両国の勢力比が取り決められた。ルーマニアにおいてはソ連90%、イギリス10%というように具体的な数値が決められた。

 極東密約では、ソ連とアメリカの間において戦後日本の運命が決められた。当時硫黄島で2万人の兵士を失い苦戦を強いられていたアメリカは日本と中立関係にあったソ連に対し対日参戦を要求した。これに対し、ソ連はサハリン南部及び千島列島の割譲、満州における港湾及び鉄道の利権を要求し、双方の意見は承認された。

 ヤルタ会談終了後の1945年4月12日ルーズベルトが死去し、副大統領であったトルーマンが第33代大統領に就任、ソ連との関係が悪化した。1945年7月ポツダム会談が行われる直前、アメリカは原爆実験に成功した。会談時にはアメリカはソ連の協力を必要とはしなくなっていた。ポツダム宣言はソ連の関与なくアメリカ、イギリスの起草により発表された。日本降伏による第2次世界大戦終結後、米ソ関係はますます悪化の一途をたどり、東西陣営の二極化が進んだ。そして東西ドイツの分裂、朝鮮戦争により同じ民族が対立し、引き裂かれるという悲劇が生じた。朝鮮戦争は今なお休戦状態にあり、決して終わってはいないのである。

 このように事実を淡々と述べたものではあるが、随所に工夫が見られ、歴史を事実として認識させてくれる有意義なドキュメンタリーだった。

 私がこのドキュメンタリーを見て考えたことは、「戦争の功罪」と「世界におけるパワーバランスの問題」の2点である。

 まず、「戦争の功罪」について考える。戦争は罪しか残さないという意識しかなかったのだが、イラク戦争におけるアメリカの行動を見て戦争に功はあるのだろうかと考えるようになった。アメリカはイラクが化学兵器を保有していることとイラク国民をフセインの恐怖政治から解放することという大義名分の下、イラク戦争を起こした。しかし、現実を見れば隠されていたとされる化学兵器は見つからず、テロが頻発し、治安はますます悪化する一方である。結局アメリカは前述の大義名分の下にイラクの石油利権を獲得するために戦争を起こしたとしか考えられなくなる。しかし、世界中にアルカイダのようなテロ組織が多数存在し、我々の生活に脅威を与えていることを考えれば、一概に戦争を含む武力攻撃がよくないと言うことはできなくなる。イラク戦争は対テロ戦争という側面も持っていたことを考えると、複雑な心境である。ただし、戦争自体について考えると、やはり罪しか残らないと考える。なぜなら、戦争は大勢の被害者や多くの悲劇しか生まないという真実がイラク戦争に限らず何例もこれまでに存在していたからである。

 次に「世界におけるパワーバランスの問題」について考える。同時多発テロ以降、アフガニスタン、イラクに見られるようにアメリカの一人歩きが目立つ。アメリカがあたかも世界を支配しているかのように見える。いまだに冷戦が続いていたなら、アメリカはアフガニスタンやイラクを攻撃することはなかっただろうか。冷戦下においては確かにキューバ危機やベトナム戦争が起こってはいるが、米ソのパワーバランスが保たれていたように私は考えている。もちろん、冷戦がよかったと言うつもりはない。冷戦は前述のドキュメンタリーを見ても悲劇を生んだものとしか考えられないし、2度と同じような過ちを犯してはならないと考える。しかし近年のアメリカの行動を見ていると、冷戦終結やソ連の崩壊によってパワーバランスが崩れ、アメリカの一人勝ち状態となり、その結果このような事態を招いてしまったのではないかと考えずにはいられないのである。今後世界のパワーバランスを保つ存在として考えられるのは国連しかないと考える。アメリカ1国に任せておくのはとても危険なことである。近年の国連の様子を見ると、確かに問題点もある。しかし、世界規模で運営している国連の方が世界のパワーバランスを保つ存在としてふさわしいと考える。




NHK映像の20世紀 第4巻「ヒトラーの野望」批評  (教育学部1年 佐藤結美)

 この映像資料では、アドルフ・ヒトラーがドイツ内での政権を掌握し、独裁体制を敷くまでの過程が描かれている。ヒトラーが何千もの聴衆を前にして熱弁を振るう様子や、彼が製作したプロパガンダ映画などの映像が余すところなく使用されていて、ヒトラーの独裁政治の様子を、彼の死後半世紀以上たった今でも鮮やかに蘇らせる逸品である。

 第一次世界大戦の敗戦国であったドイツは、敗戦を契機に、領土の削減・軍備の制限・賠償金支払いなどの苛酷な条件を課せられ、国力は著しく減退した。その結果、ドイツ国内は深刻な不況に陥り、街は失業者で溢れた。ヒトラーは、活気と誇りを失いつつある母国の惨状を見て政治家を志した。彼はミュンヘンで政府を転覆させるため、クーデターを起こしたが、失敗して投獄された。そこで、彼は選挙により合法的に政権を獲得することを決意し、彼の政治の指針として「わが闘争」を執筆した。出獄後、彼は熱心な選挙活動を開始し、大量にビラを撒き、街のいたるところにポスターを貼り、ナチス党歌を流し、飛行機で遊説した。また、ラジオを使って、ドイツ民族の優越性、自分こそが偉大なドイツ民族だけの国家を作るために登場した英雄であるということを情熱的に演説した。敗戦後、慢性的な不安状態にあったドイツ国民は、この異色の人物に絶大な信頼を抱き、ヒトラーは大人気を博し、ナチスの一党政権が始まった。ヒトラーは首相就任後、失業者対策に乗り出し、高速道路建設・自動車大量生産などの公共事業を拡大した。その結果ドイツの失業者は激減し、国民はこの新しい首相に国の未来を託した。この時までは、ヒトラーは優秀な政治家であったが、やがて独裁者へ変貌する。

 ヒトラー政権が国民から絶大な支持を受けたことが、彼の民族主義・国粋主義に拍車をかけ、ドイツ民族の純潔を守るという名目でユダヤ人弾圧政策を実行した。ユダヤ人の強制収容所を作り、秘密警察(ゲシュタポ)を用いて反対者を迫害した。また、出版・言論統制を徹底させ、自由主義者・共産主義者・ユダヤ人の著書を焼いた。ヒトラーの独裁はエスカレートし続けたが、ドイツ国民は彼に対して無批判であり、むしろ崇拝さえしていた。

 この資料を通して、過剰な民族主義・国粋主義に対する疑問が生まれた。ヒトラーは、ドイツ民族を純血なものとみなし、他民族との混血を禁じたが、そのドイツ民族が、何世代にもわたって他民族との混血を繰り返しながら形成された民族である可能性は否めない。    

 ドイツが現在の形になったのは1815年のドイツ連邦成立時であり、それ以前、現在のドイツは神聖ローマ帝国(962〜1806)に属していた。神聖ローマ帝国は現在のオーストリア・スイスなどのドイツ系民族(ゲルマン民族)から成る国家を含んでいたが、1200年代後半までは現在のイタリアのヴェネチア地方も含んでいた。イタリア人はラテン系民族であり、ドイツ人とは異民族同士であるが、イタリアのヴェネチア地方が神聖ローマ帝国に属していた約300年の間、ラテン民族とゲルマン民族が混血を繰り返し、その結果別の民族が生まれて現在に至っている可能性がある。よって、ヒトラーがドイツ民族の純潔を主張する妥当性は低いといえるだろう。また、ヒトラーは、愛国心が人一倍強く、ドイツの権威が地に落ちるのを見かねて政治家を志したほどの人間であるが、過剰な愛国心もまた同じ論点から、非合理であると考えられる。ドイツが現在の形になってからの歴史は浅く、ひとつの国家としてのドイツという概念はむしろ近代以降になってから作られたものである。にもかかわらずヒトラーが、ドイツが人類史の黎明の頃からドイツであったと信じているかのように愛国心を発露させているのは、頑迷固陋であると言わざるを得ない。無論、この世界には沢山の種類の民族が存在するので、「人類みな兄弟」という安直なレトリックを用いて結論づけることはできないが、盲目的な愛国心や民族主義は非合理なものであるといえる。

 人類の歴史は戦争の歴史と言い換えることができる。戦争の理由は様々なものがあるが、その多くは民族・国家同士の、何らかの利害をめぐる衝突である。民族や国家というものは絶対的なものではないにもかかわらず、人間は自分の属する民族の純潔を疑わず、自分の属する国家に固執し、他の民族や国家に利益を渡さないように努める。昨今、日本では愛国心教育の必要性が問われていて、愛国心というものは一般的に良いものとされているが、歴史は、ヒトラーに限らず愛国心の負の側面も物語っている。この映像資料は、ヒトラーの専制政治の様子を通して、愛国心や民族意識の弊害と、民族主義の妥当性について考えさせる、興味深い資料であった。




チェン・カイコー監督「さらば、わが愛 覇王別姫」 (法学部1年 小山早苗)

 私は、以前に文化大革命について書かれた本を読んだことがあり、その激しさに驚き、興味を持った。そのため、この映画を選んだ。監督を務めたのは、チェン・カイコーであり、舞台は第二次世界大戦から、文化大革命にかけての中国である。この映画は、時代に翻弄されながら、中国の伝統芸能である京劇を演じる二人の役者の愛憎を描いている。

 あらすじは以下の通りである。シャオローと蝶衣(ティエイー)は、幼い頃から同じ京劇の一座で兄弟のように育つ。成長した二人は京劇のトップスターとなり、シャオローは男役、蝶衣は女役を演じる。彼らが演じるのは「覇王別姫」という項羽と虞美人の悲恋の物語である。蝶衣はシャオローに想いを寄せるが、シャオローは娼婦の菊仙と結婚してしまう。そんな中、日本軍は中国での勢力を強め、京劇の舞台にも入り込んでくる。シャオローは、日本軍に反抗的な態度を取り、捕らえられてしまう。シャオローを助けるために、蝶衣は日本軍の前で京劇を舞う。シャオローは蝶衣の行動をなじり、二人の仲は決裂する。1945年に日本は降伏する。蝶衣はシャオローを助けるときに日本軍の宴席で歌ったことで捕らえられるが、なんとか釈放される。1948年に国民党は台湾に逃亡し、1949年には人民解放軍が北京に入城して、中国は社会主義国家になる。民衆の力が強くなり、王族を題材にした京劇は時代に合わなくなってくる。それからしばらくたった1966年に、文化大革命が起こる。シャオロー、蝶衣にも「反動分子」としての疑いがかかり、彼らは紅衛兵に取り囲まれて問い詰められる。しつこく問い詰められたシャオローは、蝶衣の過去をばらし、娼婦だった妻の菊仙のことを愛してなどいないと言ってしまう。それを聞いた菊仙は自殺する。それから11年後、文化大革命は終わり、シャオローと蝶衣は二人で京劇の練習をしている。最後は蝶衣の自殺を暗示する形で終わる。

 この映画の特徴は、歴史的な事件そのものを描くのではなく、その事件が人々の生活に与えた影響を描くところにある。そのため、歴史的な事件を実際に起きたこととして捉えることができた。この映画では、登場人物達のきれいなところも汚いところも描かれている。お互いを愛し、憎しみ、裏切り、それでも離れられないシャオローと蝶衣の関係は、不思議な感じがした。一番印象に残った場面は、紅衛兵に問い詰められたシャオローが蝶衣を裏切るところだ。この場合、自分が生き残るためには、蝶衣を裏切るしかなかったのではないだろうか。当時の中国で、どうしようもなくて家族や友人を裏切った人は多かっただろう。政治体制が急激に変化するというのは、本当に大変なことなのだと思った。昨日までは正義だったことが、次の日には悪になってしまう。このような時代を生き抜くことは非常に困難であり、毎日気を使って生活しなくてはならないだろう。また、大衆の恐ろしさも感じた。大衆というのは、全体として非常に大きな力を持っていて、それがちょっとしたことで、右へ左へ激しく動くという印象を受けた。自分達を守るために誰かを標的にするのだ。大衆の力によって社会が間違った方向に進んでいくというのは、いつの時代にもどこの国でもあり得ることだろう。この映画の登場人物は、誰一人として幸福になっていない。それは社会が大きく変わるとき、人々の平穏な暮らしは奪われることを示しているのではないだろうか。